Forest Scape

2000年11月暮れの話 三重県美杉村へ

この文は、私ひろふみが2000年秋に一人旅に出かけた際の話題を、2003年になって旧BBS上で連載し たものです。一部読みやすいように訂正してありますが、このページでは当時と同内容にて掲載させて頂きました。旅の当時私は大学生でした。旅先で撮り貯め た写真はフィルム4本分になり、近日それらを合わせて掲載できればと考えています。

※日付は掲載当時のBBS投稿日時です。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16

[1] 2003年秋の出来事から
[original article: 2003/11/23(Sun) 23:58:55] Menu
今日は地元の連れとドライブにでかけました。
行き先はとりあえず大阪を離れて少し遠出しようかなという安易な考えだったので深く決めなかったんですが、
何となく奈良方面に行きたくなりました。
連れを難波で拾い、天理でラーメンを食べてたんですが、
その頃にはすでに夕方。
そうしているうちに急に三重方面に行きたくなり、
日が暮れる時間にもかかわらず大阪と逆方向に走らせ、着いたのは伊賀・上野にある上野公園でした。
以前から一度忍術資料館に行きたかったんですが、すでに夜だったため断念。
その後公園内にある俳聖殿という建物を見に行ったんですが、辺りは灯り一つ無く真っ暗やみでした。
目的は果たせず、結局特に何もせず帰ってきました。

でも本当なら、時間があれば3年前に訪れた滝にもう一度行きたかったんです。



私は自分がネットに現われる以前から、自宅を離れて遠出をすることが好きでした。
出かけると言ってもほとんど日帰りだったり、大学関連での遠出の際は知人宅に泊めてもらったりと、
旅という旅はほとんどなく用事目的での遠出が多くを占めていました。
ネット交流を初めると徐々に行動範囲が広がり、ついに首都圏まで進出することになりました。
しかし、友人に会うとかライブを見るとかそういったことは多々あったものの、
『旅』という目的のための遠出は意外と全くなかったんです。

そんな私が、初めて一人で泊まり掛けの旅に出かけたのはちょうど3年前の2000/11/22、23、24の3日間でした。
あの頃自分は様々な悩みを抱えてしまい、少し立ち直れない程の疲れを抱えていました。
人間関係に行き詰まったり、将来が全く見えなかったり、過去からずっと何も結果を残せていない自分を悔やんだりと。
大学の友人からもアドバイスを受けたりしたんですが、
考えた結果、答えは何も見つからず。
結局大学に行っても家で過ごしても進歩は一切ないだろうから、
日常では決して経験できないようなことに巡り会わなければ自分は変われないと気が付きました。

そして翌日、突如一人旅に出発しました。
当時誰とも会いたくなかったため、誰にも行き先を告げず、携帯電話も持たずに家を出たことは今でも覚えています。
持っていたのは一眼レフカメラと大きな黒いバッグのみ。
少し遅めの朝10時か11時頃に難波駅に降り立ち、金券ショップを物色して安い切符を購入し、
近鉄大阪線の伊勢方面行きの急行に乗ったんです。

どうしてあの時自分が伊勢方面を選んだのかはよく分からないんですが、
昔放送していた番組で三重県内の山の中を走るローカル線の話題を見たことがあり、
その沿線の某駅を降りると目の前には紅葉がものすごく綺麗な場所があった…という映像がずっと頭の中に残っていたんです。
もう何年も前に見たもので記憶はあいまいでしたが、なぜか自分の足でそこまで行ってみたくなったんです。

その出発する日の翌日にはすでに別の友人と会う約束があったんですが、
一方的に行けなくなったというメールを打ってそのまま電源切っちゃいました。
何とも友達付き合いの悪い奴なんだろうか…と思われてしまいかねない行為でしたが、
当時の気分ではそうするしか方法が思い付かず、数々の友人達には帰宅後深く弁解し謝罪しました。


そんな旅から戻って3年経ったんですが、そういえばその時の出来事を細かく書いたことはありませんでした。
この場では軽い話のネタで触れたきりなので、自分が直接話した人しかこの話は知らないと思います。
しかし深い付き合いの友人・知人には大体この話を一度したことがあるんですよね。
これから数回に分けて、自分に取っては今までの経験上外せないこの一人旅の話題を、
丸3年を迎えたこの時期に書かせて頂きます。
[2]
[original article: 2003/11/25(Tue) 13:57:19] Menu
22日の午前に大阪の自宅を出発し、20分程で難波に着きました。
この日の天気は確か曇りときどき晴れだったような気がします。
電車に乗る前、難波駅の前で↑このような写真を撮ってみました。
この時どんな旅になるかは全く予想しなかったのですが、
もし旅が帰宅後最高に意味のあるものとなった場合、
この日は自分にとって新たな出発の記念日になる可能性がありました。
ここ数日間で周囲の人間関係に疲れ果てて、当時の気分は人間不信に自信喪失状態。
写真に映る空も決して綺麗に晴れている訳ではありません。
そんな最悪の気分がこの日の空に反映されていたとは思えませんが、
なぜか空を記録したくなり難波のど真ん中でカメラを手にしていました。

その後銀行で預金を引き出し近鉄に乗り、確か上本町で十数分待った後自分が向かう方向の電車に乗りました。
ダラダラ行きたかったんで特急に乗る気もなく、2時間程車内で考え事をしながら過ごしていました。
何考えてたのかは覚えていません。

そして最初に降りたのは三重県の松阪。
言わずと知れた松阪牛が名物の土地でもあります。
駅を出てすぐしゃぶしゃぶ屋とか焼肉屋とかいくつか見かけるんですけど、
駅前に関しては人通りはそれほど多くありませんでした。
以前伊勢地方に来たのは小学校の修学旅行だったような記憶があり、
それが正しいなら約8年ぶり位になる訳です。
しかし松坂牛を食べる金なんて財布になく、駅を降りたら近くのラーメン屋に入って昼食。
もうすでに昼過ぎて1時か2時になっていました。
せっかくの自由な一人旅なので奮発しても良かったんですけど、この旅の目的は決してグルメツアーじゃなく、
たった一人になること。
誰の人間にも邪魔されず一人で行動できる時間が欲しかったんです。

ちなみに昔見た紅葉のローカル線というのは、この松阪から伊勢の奥地に延びているJR名松線のことです。
列車はたった1両で1日8本しか走っていないんです。
1本乗り遅れると約2時間待ち。そんなの当時の自分には信じられないような路線でした。
でも松阪に着いた頃には空は曇ってきて、名松線に乗るのは明日以降にしようかと考えました。
実は路線の先の土地に関する情報は観光ガイドにはほとんど載っておらず、
リゾート施設が1つある以外には宿の1つや2つあるかどうかも分からない土地だったからです。
情報に関しては何一つ準備をしておらず、テレビで見た駅がどの駅なのかも分からないんです。
行き当たりばったりで行動する以外に方法がありませんでした。
昼食後、次の列車が動くのが3時台。もし終点まで行くとなると着くのは5時半を過ぎてしまうことになり、
一人旅素人の自分にとっては宿を見つけられる保証もなく、この時間から動くのは危険と判断したんです。

そこで次は、伊勢神宮のある方向に向かうことにしました。
松阪よりは多少店は多いだろうし、神宮にも行ってみようかなと思ってみたからです。
近鉄とJRどちらも伊勢市駅に行けますが、たまには気分を変えてJRで行くことにしました。
[3]
[original article: 2003/12/03(Wed) 11:22:03] Menu
出発する前、松阪の駅前にある商店で腕時計を買いました。
普段の私は携帯電話の時計機能しか使っていなかったので、時計は持ち歩いていません。
旅先でその電話を持っていないとなると、時計を持っていない訳です。
家から持って行けば良かったものの、出発時に腕時計を着けることすら意識しなかったのです。
ちょうどこの頃、携帯電話やインターネットに生活が依存しつつある状態でした。
インターネットで知り合った友人に会いに東京にも行ったし、
それに携帯電話が無いと大学のある滋賀県や他地域の友人と連絡が取れなくなってしまい、何かと不便な状態でした。
旅行中人間関係を一方的に塞ぐために簡単に携帯電話を置いて行ったものの、
そんなデジタル技術に頼ることでしか友人を繋げなかったことを振り返ると、また嫌な気分になりました。

そんなことを移動中の車内で考えつつ、伊勢市駅に着いたのは午後4時頃でした。
駅を出て街を少し歩いてみました。お土産屋を覗いたり、本屋で現地のガイドブックを立ち読みしたりしていました。
この後伊勢神宮に行こうと考えていたんですが、やはり気になるのは目的地の名松線沿線の情報でした。軽く調べたところ、
三重県一志郡美杉村という所まで線路は続いており、おそらく自分がTVで見た映像はその村内にある駅の可能性が高かったのです。
美杉には大きな旅館とリゾート施設があるのは昔から知っていましたが、そんな所にまさか鉄道が走っていたとは調べてみるまでは知りませんでした。
自分は民宿とか小さな温泉旅館に泊まりたかったので、そういった情報を聞きに駅前の旅行会社に訪ねました。
しかし情報はその大きな旅館施設以外扱っていないと言われました。
とりあえず宿なんて現地に行けば何とかなるだろうと思い、伊勢神宮の外宮に行くことにしました。
伊勢市駅から歩いて10分で着いたんですが、その頃曇り空もだんだん暗くなりつつありました。
5時で境内に入れなくなるので、残り1時間弱でしたが本殿まで歩くことにしました。
うっすらとした深い森の中を参拝道は続くんですが、人はほとんど歩いていなかったです。
そういえば確か中学生の頃に一人で伊勢から日帰りをしたことがあったので、神宮に訪れたのは7年ぶり位だったかと思います。
歩いているうちに本殿に着き、心を込めて参拝しました。
神宮の深い森は神聖な空気に満ちあふれていて、だんだん暗さを増す境内はそういった雰囲気がますます増えていくように感じました。

外宮を後にし、この日は伊勢市駅周辺で宿を探すことに決めました。
一人で宿を決めるのは生まれて初めてだったので、少し緊張を交えながらでしたが何とかビジネスホテルを見つけチェックインすることにしました。
部屋に戻り、窓を眺めると、その向こうには街並や神宮の森が見えました。
真下には近鉄の線路とJRの車庫があり、照明に照らされた線路や列車は綺麗に見えました。
夕食は近くのコンビニで買うことにしました。カップ麺とおにぎりやお菓子等を買って部屋に戻って食べていました。
最初の夜は味気ない食事になりましたが、人に会いたくなかった気分ではそれがちょうど良かったのかもしれません。
夕食後、家族や友人はどうしてるかなぁと考えたりしたんですが、携帯電話は置いてきたためもちろん連絡は不可能です。
携帯電話を持っているのが日常当たり前だったので、それがないことにこの日はまだ慣れていなかったように思います。
翌日の予定を突然キャンセルした自分のことを友人にはどう思われているのかも気になっていたんですが、
気持ちの整理がつくまでは会う気はありませんでした。一体自分はみんなにとってどういう存在なのか、
本当に好んで友達付き合いをしているんだろうか…いくら考えてもマイナス思考ばかりでした。
そんな考え事をしながら夜はTVを見たりして、気がついたら眠りについていました。
[4]
[original article: 2003/12/04(Thu) 15:20:55] Menu
23日。
朝起きて窓を開けると外は青空で、気持ちのいい天気でした。
ホテルを8時過ぎにチェックアウトし、伊勢市駅から近鉄で松阪に向かうことにしました。
十数分乗った後松阪に着いたんですが、この時すでに名松線の列車は出発したばかりで、
次の列車まで2時間弱待つことになりました。
駅のマクドナルドで食事をし、松阪市内を歩くことにしました。
街を歩いているとあちらこちらに江戸時代からの屋敷や商店などの建物を見かけました。
昔ながらの建物や和風建築が多く、景観に配慮された街づくりがされているようでした。
そして15分ほど歩いて松阪城跡の公園に来ました。
ここの入口付近には昔の大きな石垣が崖のようにそびえて残っており、
石垣を登った高台からは瓦屋根が広がる街が一望できました。
そこには大きなイチョウの木が立っていて、真黄色に明るく染まっているのが印象的でした。
公園内には動物が飼われていて、猿の子供がかわいかったのも覚えています。

街を歩いているうちに列車の発車時刻が来たので、松阪駅に戻りました。
いよいよ目的の場所に向かうことになります。
ひとまず美杉村の役場がある伊勢八知(やち)駅までの切符を買って、名松線の伊勢奥津(おきつ)行きの列車に乗りました。
ここから伊勢八知駅までは約1時間20分の旅です。
松阪を出て田園風景の中を進みます。途中は近鉄線と線路がほぼ並行するんですが、
途中駅は全く繋がっていない上、列車本数も少ないので地元住民はほぼ近鉄に流れるのかもしれません。
11月は青春18きっぷ期間ではないので旅行者は少なく、車内は地元のような人が数人居る位でした。
中年の女性方数人乗っていたんですが、何やら話し声が聞こえるんです。
「この先は途中からトンネルを過ぎる度に寒くなって、山奥になると紅葉がすごく綺麗なのよ」みたいなことを話しているようでした。
駅を過ぎるごとに徐々に乗客は減り、雲出川に沿って徐々に山地へと進みます。
窓の外はいつの間にかたくさんの木々に囲まれていました。
この光景はまさに自分が想像していたローカル線でした。
[5]
[original article: 2003/12/05(Fri) 23:59:21] Menu
長く乗っているうちに伊勢八知駅に着くんですが、降りる頃には2〜3人しか乗っていなかった記憶があり ます。
そしてたった一人列車を降りました。

伊勢八知駅は無人駅で、駅を出て右には村役場がありました。
しかし周辺は車がたまに通る位で人通りはゼロでした。
列車は行ってしまい、一人だけ取り残されたみたいでした。
しかし行動しないと進展がないので、とりあえず右の道に沿って歩いてみることにしました。
川に沿って道があるんですが、進んで行っても誰一人すれ違うことがありません。
開いてるかどうかも分からない店を目にするも、入る気も起こらないほど人の気配が無いんです。
それにこの日は祝日。
尚更人が居ない訳です。人に会いたくないとは言え、人が居なさ過ぎ。
普段都会暮らしになれている自分にとってはこんな土地初めてでしたが、この村だけ時間は全く進んでいないような気がしました。

こうして誰一人通行人と会わないまま、確か30分位歩いたと思います。
橋を渡って細い路地まで入っていって、戻ろうとした時にやっと一人目の村人と会ったんです。
その時思わず「こんにちは」と挨拶していました。
まさか赤の他人に挨拶をするなんて人間不信の自分には考えもつかなかったんですが、あまりの人気の無さに耐えかねて、
誰でもいいから人に声をかけずには居られなかったのかもしれません。

結局一人会っただけで駅まで戻ってしまいました。
買ったばかりの時計は1時を回っていましたが、まだ1日は長いので気長に行動しようと楽観的になろうとしていました。
今度は左の道を歩くことにしたんですが、辺りには木材置き場が広がり、美杉の名の通り林業が盛んなことに気付きます。
そんな風景を眺めながら5分ほど歩くと、畑を耕しているおばさんに会いました。
挨拶をし、この辺りに宿はないかと訪ねました。
そうすると、この先すぐの所に民宿が一件あることを教えてくれました。
そうして歩くとすぐに『油屋』という宿を見つけ、扉を叩きました。
「今日泊まれますか?」と女将さんに聞くと、
「空いてますよ」と言われたので、夜はここに泊まることに決めました。
[6]
[original article: 2003/12/07(Sun) 22:27:02] Menu
念願の宿を見つけ、随分肩の力が抜けたようでした。
カメラを持っていたので、せっかくだからこの村できれいな風景があれば撮って行こうかと思ってました。
そこで宿の人に紅葉のきれいな所はどこか訪ねると、川沿いの道を上った所に大きな楓の木があるらしく、
自分は旦那さんの軽トラックでその場所まで連れてってもらうことになりました。おそらく1キロ位だったと思います。
そこは山に囲まれた深い谷の中で、道と線路がその川に沿って延びていました。
進んで行くと道沿いに楓の木があって、そこでトラックから降ろしてもらいました。
旦那さんは用事があるということでトラックはすぐ走り去り、
ここからは一人で景色を楽しむことにしました。

楓の木は、自分の居る道の側から川に向けて大きく枝が広がっており、川を挟んだその向こうの崖には名松線の線路が通っていました。
何枚か写真を撮ったんですが、楓の葉は真っ赤に染まっていて綺麗な絵になっていました。
しばらく居た後、今度は道に沿って歩いてみることにしました。
道と線路は同じ方向に続いているので、道なりに行けばその先の比津駅、終点の伊勢奥津駅に辿り着くことができます。
どちらかの駅まで歩いて、そこから列車に乗り八知の宿に戻ろうという考えです。
しかし八知から伊勢奥津駅までは約7キロあり、余裕を見て歩くことが必要でした。

ひとまず伊勢奥津駅を目標にし、山に囲まれた道をひたすら歩きました。
木々の間を差し込む太陽の光を見ているのが不思議と飽きなかったのを覚えています。
深い谷を流れる雲出川の急な流れは延々と続き、紅葉を見つける度に立ち止まっていました。
有名な観光地で見るような美しい風景が川沿いにいくつも見受けられるにも関わらず、歩いている人がほとんど居ないのが驚きでした。
そうしてゆっくりと数十分歩くと、小さな集落が見えてきました。
その集落を少し高い所から見下ろす位置に比津駅があります。
駅に立ち寄ったんですが、ホームと待合室以外は特に何もない駅でした。
辺りを見回してみると、もしかするとこの駅が昔見た映像の場所なのかも、と考えました。
時刻表を見てみると、ちょうど間もなく伊勢奥津行きの列車がやって来る時間でした。
せっかくだし列車が過ぎるまで待っていようかと思い、駅を眺められるちょっと高い位置に移動してみました。
待っているうちに踏切の音が鳴り、音を立てて列車がやってきました。
ゆっくり走ってきた小さな列車は駅に止まり、乗降客のないまますぐ発車して行きました。

その光景を見ていた自分は、もしかするとこれが自分の見たかった風景だったのかもしれないという気がしてなりませんでした。
実際にTVで見た映像がどんなものだったのかは覚えていません。
しかし比津駅を取り囲む風景は、一昔前の日本を見ているようで何だか懐かしく感じました。
目の前に紅葉が広がるといったTVの記憶と微妙に違っていましたが、
この列車が来る様子だけでも十分風情があって、切り取って映像作品にでもできるんじゃないかなんて思えました。
[7]
[original article: 2003/12/09(Tue) 22:06:25] Menu
伊勢奥津行きが出て行った後、逆方向の松阪行きが数十分後に来るのを待っていても時間の無駄なので、
終点まで歩くことにしました。ずっと南を向いて歩いているんですが、
集落を過ぎると再び谷になり、曲がりくねった道と川と線路は延々と続いていきます。
同じ景色が続くのかと思ったんですが、比津駅を出てから10分ほど歩き、
左に曲がるカーブに沿って歩くと、その先には山一面黄色とオレンジに染まる山が広がったのです。
橋を渡って川をまたぎ、川を挟んで視界の左側に広がる黄色の山は、
ちょうど西日を受けることでまばゆい位に輝いていました。
山の斜面をこんなにも広い範囲で覆い尽くす紅葉は生まれて初めて見たかもしれません。

林の中を歩くこと2〜30分、そのうち懐かしい雰囲気の農村が開けてきました。
古くから建っているような家がいくつか見られ、柿の実が真っ赤に成っているのもたまに見かけられました。
景色を眺めながら歩いているうちに交差点に差し掛かるんですが、
右に曲がって進んで行くとその先も道と線路が平行して続きます。そしてついに、終点の伊勢奥津駅が見えてきました。

伊勢奥津駅は古い家々がたたずむ中にひっそりとありました。
そこはかなり広い敷地の中に無人の駅舎が一つ建っていて、駅舎の目の前には大きなイチョウの木が植えられていました。
駅に着いた頃には列車が行ってしまっていて、そこには古びた線路と小さなホーム、
そして途絶えた線路の横には昔に蒸気機関車が使ったと思われる錆びた給水塔が残っていました。
駅舎はいつ建てられたのかは分かりませんが、『伊勢奥津驛』を逆に書いた表示を見る限りかなり古いようでした。
ちょうど自分が訪れた時、駅の前には地元のおばさんが居て、
イチョウが立派に黄色くなっているの見ながら少し話をしていました。
天気はこの時快晴で、とても心地が良かったのを覚えています。

駅の周囲には、軽く見渡すだけでも時間が止まっているような風景がいくつも見られました。
歩いてきた道路を挟んで駅の北側には神社があって、鳥居の先には森に囲まれた階段が山肌に沿って続いていました。
そこには足を運びませんでしたが、まるでトトロが住んでいてもおかしくないような光景でした。
南側には、細い旧街道に沿って格子状の窓が立ち並び、
今は人がほとんど居ないもののかつてはここが宿場町だったかのように、立派な家々が見られました。
しかし駅周辺には開いている店が一つもありませんでした。小さな郵便局が一つあった位でしょうか。
その旧街道の隣にはずっと線路沿いに続いていた雲出川が流れていて、
水の流れが紅葉と溶け合ってのどかな山村の風景が出来上がっていました。

数十分程歩いた後再び駅に戻ってきたんですが、列車がまだ来ないので駅舎の中で待っていることにしました。
日は徐々に傾いてきていて、薄暗くなりつつある時間になっていました。
現在駅舎には改札はなく、誰も居ない待合室だけがありました。
出札所はカーテンが閉められていました。
その閉ざされた出札所の窓をよく見てみると、思わず目を引く物を見つけたんです。
窓に飾られていたのは、数年前に産経新聞の大阪版夕刊でこの名松線のことを紹介していた記事の切り抜きでした。
読んでみると、奥伊勢の山中で廃線問題が起きつつも細々と生き延びているローカル線が密かな注目を集めている、という内容でした。
終着駅にはノートがあり、ここを訪れた旅人達が一言書き置きをしていく話題も紹介されていました。
自分はこの文面を正確に覚えていないものの何となく見覚えがあるようで、思わず釘付けになってしまいました。
自宅でも以前から産経新聞を読んでいたため、この時ここに足を運ばせたのは、
この記事の記憶も関係している可能性もあり得るんじゃないかと不思議に思えてきました。

そんな誰も居ない待合室の中に、3冊ほどのノートが置いてありました。
あの記事に紹介されていた『名松線物語』と表紙に書かれたノートです。
[8]
[original article: 2003/12/09(Tue) 22:06:25] Menu
そのノートには、今までこの駅を訪れた人達が一筆書き置きできるようになっていて、
以前ここを訪れた一人の旅行者が置いていったものだそうです。
その後もノートの記載がいっぱいになったり紛失したら別の誰かがノートを置いて行くそうで、
自分が行った当時すでに12冊目位になっていたかと思います。

そして自分はノートを手にし、旅人が記した記録を読み始めました。
大体が名松線に乗って訪れた人だったんですが、その中でよく目にしたのが、
JR全線乗り潰しに挑戦している旅行者が、目的達成の最後にこの伊勢奥津駅を選んでいたのが何人も居たことです。
あとは名張からバスに乗ってこの駅に着き、その後名松線で松阪に向かっていく旅行者も居るようです。
旅人それぞれに様々な想いを抱えている姿がページに映し出されていて、いつの間にか長い間ノートに目を通していました。

元々名松線は戦前松阪と名張を結ぶ路線計画があったものの、
先に松阪と名張を結んだ近鉄大阪線ができたおかげで伊勢奥津から西に延ばす必要が無くなり、現在に至るそうです。
名松線の『松』は起点の松阪ですが、『名』はというと、結局線路が延びなかった名張になる訳です。
その線路が敷かれなかった部分には、現在バスが1日たった3往復近鉄名張駅と伊勢奥津駅の間を走っています。

もし名松線が名張まで線路が通じていたとしたら、現在の美杉村の姿は随分変わっていたかもしれません。
その先の奈良県境を越えた御杖村や曽爾村、再び三重県内に入って今はダムの底になっている村に線路が敷かれて汽車が走っていたら、
なんてことを想像してみたくもなりました。
松阪から伊勢奥津駅にやってきた汽車が、折り返さずにそのまま夕陽が沈む名張の方向に走り去って行く…

ノートを読みながら、自分はそんな光景を思わず空想で描いていました。
今では廃線問題が度々起こっていて、実現の見込みのない延長どころか、
過疎化の進んだ今は名松線全線が無くなってしまう可能性だって否定できません。
人の居ない田舎を旅行するという魅力を持つこの路線は貴重だと思うし、
観光地とはまたひと味違う日本の懐かしい風景を走る列車はこのまま何十年先も残っていてほしいですね。
個人的には、JR東海が新幹線での収入を名松線の赤字を補填してくれれば当分は存続してくれるような気もするし、
やはり数年後もこの平和な風景がそのままに近い形で残っていることを期待したくなりました。

そして自分もペンを手にしました。
ノートに書いた内容は今では詳しく覚えていませんが、
当時人間不信になっていた自分が、人に会いたくないがために人の居ないこの地に来たにも関わらず、
見ず知らずの人との会話を重ねることで人の優しさに触れたことなど、
初めての一人旅に対する想いなどを長々と書き記しました。
次の列車が着いた頃には空は夕暮れになっていました。
ひんやりとした空気が辺りを覆い始め、深い夜になっていきました。

列車は5時半頃にようやく発車し、宿のある伊勢八知駅まで戻ることにしました。
移動途中、線路内に鹿が侵入し列車が止まりました。
すぐに動き出しましたが、山奥にはこんなことも常にあるのかと驚いてしまいました。そして伊勢八知駅に着き、そこから一人夜道を10分程歩き、宿に戻りま した。

この日の部屋は1人か2人寝るのがやっとの広さの和室で、
宿泊客はほとんど居ない様子でした。早速夕飯を頂いたんですが、
朝から何も食べていなかっただけに食事がものすごく美味しく味わえました。
その後は1時間程テレビを見たり、のんびり過ごしていました。
入浴後、誰も居ない外に出てみたんですが、街灯が少ないのもあってそこには満天の星空が広がっていました。
流星がいくつも飛び交い、都会では決して見られない夜空に感動を覚えました。
このままずっと見ていたかったんですが随分寒かったので、
満足したところで部屋に戻りました。そして10時過ぎにはすでに眠りについていました。
[9]
[original article: 2004/01/31(Sat) 21:36:33] Menu
24日。

7時半頃には起きて朝食を採りました。
その後ゆっくりと出発準備をして、9時過ぎに宿を後にしました。
その出発前、近所に住む人達が新鮮な食材を持って集まっていたを覚えています。
おばさんが両手に1尾ずつ手にしていた採れたての川魚が美味しそうでした。外に出てみるとこの日も外は快晴でした。

この日は特に行き先は決めてなかったんですが、村の南にある川上という所に神社があるということを聞いていたので、
ひとまずそっちの方向に行こうかなと思ったんです。
宿の人にはカメラで綺麗な景色を撮影に来たという名目だったので、
「川上さん(神社)はあまり綺麗ではないかもしれんなぁ」とは言われていたんですが、なぜか神社まで行ってみようかなと決めたんです。
宿を出る前にあらかじめ近くを通るバスの時刻を聞いていたんですが、どうやら時刻が違っていてバスは来ませんでした。
結局1時間待って伊勢八知駅から列車で奥津まで向かいました。

そうして終点に着いたのは10時半過ぎだったと思います。
駅の周りも空は青くて空気も澄んでいました。この日も駅前に人はほとんど居ません。
そしてこの先延々と歩くことになるんですが、今日の目的地である川上山若宮八幡大社までは7キロ以上の道程でした。
伊勢奥津駅からの村営バスも何時間か待たないと来ない様子だったんで、1時間ちょい気長に徒歩で行くことにしました。
雲出川沿いに伸びる道に沿って上流へ向けてひたすら歩くんですが、道沿いに建つのは懐かしい雰囲気の静かな家々でした。
道には大型セメント運搬車がたまに通るんですが、歩いてすれ違う人は居ません。
数分、数十分歩いているうちにたまに人を見かけると、あまりにも人が珍しいのか思わず挨拶を交わすことはありました。
歩いているうちに集落から遠ざかり、山道の中を進むことになります。
斜面に広がる杉林と紅葉の中を流れる川の風景が延々と続いていました。

行程の半分ほど歩いていた時、ふと軽トラックに乗っていたおばさんに声をかけられたんです。
「どこまで行くんですか?」と聞かれたので、「いや、この先に神社があるみたいでそこに行こうと思ってるんですが…」と言うと、
「川上さん行くの?じゃぁ用事のついでに前まで乗せてってあげるね」と言って、荷台に乗せてもらうことになりました。
見ず知らずの旅行者なのに用事中にも関わらず乗せてくれるなんて、田舎には優しい人が居るもんだと思いました。
そして荷台につかまって山道を走ること5分前後で、目的地の神社に着きました。
歩くとかなりの時間がかかりそうな距離だったので、その時はとてもありがたかったですね。

おばさんと別れ、川上山若宮八幡大社に入っていくことにしました。
そこは川の源流に位置する神社で、周りは山だらけの場所でした。
大きな石の鳥居をくぐると、細い参道が長く続くのでした。
どうやらここは古い時代から仁徳天皇を祀っている由緒正しき神社らしく、山奥にも関わらず敷地は想像以上に大きいようでした。
[10]
[original article: 2004/02/19(Thu) 17:27:16] Menu
深い木々に囲まれた参道を奥に進んで行くんですが、辺り一面静まり返っていて人の気配はありませんでし た。
鳥や動物の鳴き声はよく聞こえるものの、たまに上空を飛んでいる飛行機の騒音が遥か遠くに聞こえた位でした。
赤や黄色に染まったいくつもの樹木が谷を囲んでいて、一人で参道を奥へ奥へと進み、奥にある石の階段を上ると大きな建物が見えてきました。ここが神社の本 殿のようです。
その場を取り囲む空気はとても神聖で、騒々しい都会じゃ絶対感じられないような場所でした。
7キロもの距離を歩いて疲れていたはずなのに、神聖な空気のおかげで自然と落ち着いた気持ちになっていました。そしてその気持ちのまま神前に礼拝しまし た。
同時に本殿の横に置いてあったおみくじを引いたんですが、それは当時の自分にとってとても従うべき内容が書かれていたので、持ち帰り今も大切に保管してい ます。

参道は本殿からその横にも伸びていて、その奥まで向かってみることにしました。
深い谷に沿って続く険しい道だったのですが、こうして雲出川の最上流まで来たからには、行き着く先に何があるのか確かめてみたかったのです。
曲がりくねった流れに沿って続く岩の道を数分ほど歩いていくと、徐々に水流の音が大きくなっていきました。
険しい岩肌に囲まれた川の流れを横目に進み、ついに道の果てに着いたのです。

目の前にあったのは大きな滝でした。そこは辺り一面岩に囲まれた中で滝の音だけしか聞こえず、延々と流れる音だけが響いていました。
岩の間を木漏れ日がわずかに差し込み、大量の水が音を立てて落ちていく滝の姿は今まで見たことがない景色でした。一人で楽しむにはあまりにも勿体ないと感 じるほど美しい空間でした。
水も驚くほど澄んでいて、思わず流れる水を口にしました。水道水に慣れている自分にとっては何一つ汚れのない新鮮な味だったと覚えています。
流れる音の中誰かに見られているような感覚をたまに感じたりしたんですが、そこには自分以外誰一人居ない空間です。
もしかするとあの時感じた人の気配は、滝を囲む神が自分のことを見ていたのかもしれないなんて考えてもよさそうな気がしました。
どれくらいの時間滝の前に居たのか覚えていませんが、じっと滝を眺めたり写真に収めたりしていました。
心が洗われるなんて言葉が最も似合う場所でしたね。
神を味方にしたというのは大袈裟かもしれませんが、旅の前に抱えていたいろんな悩みも不思議と忘れられる気がしました。
またいつかこの場所に来てみたいと強く心に決め、滝を後にすることにしました。
[11]
[original article: 2004/05/11(Tue) 13:50:10] Menu
川上山若宮八幡大社にある奥の滝まで辿りつき、神々に囲まれた空気を味わった自分は
その場を後にすることにしました。
誰も居ない細い山道を下り、水の音だけを聞きながら本殿前を通り抜け、
社務所まで下りてきました。その間誰一人すれ違うことはありませんでした。

ちょうどそこに神主さんが居て、久々に人を見たこともあって少し話しかけることにしました。
境内をひと回りした感想を話し、この神社の由来とか経緯などの話を伺いました。
元々この周辺は大阪湾と伊勢湾にそれぞれ注ぐ川の源流が集中する地域で、
千数百年前より川運によって都などに米などの食料を運んでいたことから、
国の安泰と豊穣を守るために仁徳天皇を祀り建立されたとか。
川運はなくなったものの、現在でもこの辺りは松坂牛の産地であるのを始め全国各地に食料を供給する農畜産業が盛んな土地であって、
よく畜産家の人達が参拝にやってくるとのことです。
しかし毎日休み無く牛の世話をしているため、わずかな時間を見計らって参拝した後はすぐにとんぼ返りしていくとか。
そんな様子を見るだけでも、畜産家の方々の時間を全て最高級松坂牛にかける熱意を垣間見ることができるそうです。
自分が泊まっていた民宿も話によると以前は牛を飼っていたことがあったそうです。
あの宿には何年もの間地質学研究者が泊まっていたり、個性の強い人が泊まっているのをよく見かけるとのことです。
そんな自分もある意味個性のキツい人間だったりするし、分からなくもないかななんて考えていました。
その後は伊賀上野や奈良県の榛原などにかつて居た忍者にまつわる話をしていました。
元々山奥で修験道の一種として生まれた忍術が、伊賀では初めて藩の名において忍術が認められ
公的機関として忍者隊が発展していった話などをしていました。
機会があればそういう資料館にでも足を運んでみようかなと考えています。

いつの間にか30分以上も話していましたが、そろそろ帰ることにしました。
約1時間強もの間、結局自分以外の参拝者とは誰一人会うことはありませんでした。
[12]
[original article: 2004/05/31(Mon) 21:00:49] Menu
神社を後にし、往路軽トラックの荷台に乗せてもらった道を今度は歩いて戻ることになりました。
しばらく歩いた先にある集落からバスが1時間半以上後に通る予定でしたが、
それまで待つ場所なんて当然ないので歩いた方が早く戻れそうでした。
約7キロの道程は長く感じましたが、上流からひたすら下り坂だったので少しは楽でした。
山奥の時間の流れは都会ではあり得ない位ゆっくりで、道を急ぐ必要なんて全くないようにも思えました。

山を下りていく間、いろんなことを考えていました。
旅に出る前会う約束をしていた友人に黙って家を出たことや、
人間関係に疲れてた自分を振り返っていました。
全く一人で行動するのはこの旅が初めてだったので、
行動力さえあれば何とかなるもんだという自信が持てた気はします。
それに現地の人達の優しさに触れつつ度々助けてもらったおかげで、
どこで何を成し遂げるしても常に全く一人でということはあり得ない事実にも気付かされました。
この旅での出来事が、少なくとも今後の自分にとってはプラスに影響されるだろうと考えていました。

林の中を数十分歩いていると、急に1台の車が自分の前に止まりました。
声をかけられ、どこに行くのかと尋ねられたのです。
自分は山を下りてるところだと話すと、往路に続き乗せて行ってくれることになりました。
どうやら姫路ナンバーの車で大阪方面へ帰るとのことでした。
山道を歩く自分の服装はどう考えても現地の人には見えませんでしたから、
あの時は止められて当然だったのかもしれません。
このまま名張や奈良の方向まで乗せてもらっても良かったのですが、
あんまり車中で長々と気を遣うこともできないし、できれば来た道と同じ道を通って帰りたかったので
伊勢奥津駅付近で下ろしてもらうことにしました。
[13]
[original article: 2004/06/10(Thu) 22:36:03] Menu
伊勢奥津駅に戻ってきた頃には、時刻は真昼3時前後になってたかと思います。
空は晴れていて、気持ちのいい空気がいっぱいでした。
昼食は店が一件も見当たらないので食べないままでしたが、それほど空腹感は気になりませんでした。
まだ帰るのは早いと考え、村内をもう一歩きしてからこの後1本か2本後の列車で帰ろうと決めました。
ここ伊勢奥津駅発の終列車は18時52分発、都会の人間としてはあまりにも早すぎる時刻でした。
けれどもここは田舎と割り切ってそれまでに足は間に合わせるようにして、
もし間に合わなければ昨日の宿にもう一泊でもするつもりでした。

そして駅から続く旧街道に沿って古びた宿場町の町並みをゆっくり歩くことにしました。
数十年前から時間が止まった感覚は相変わらず続いていました。
雲出川の流れに架かる橋を横切り、人のほとんど居ない家々の風景を楽しんでいました。
旧宿場町を抜け、歩いている途中ある家の前で真っ赤なトウガラシを天日干しにしていたのが印象的でした。
きれいな光景だったので写真を撮ろうと思ったのですが、
家の人がそばに居てカメラを向ける勇気がなかったので挨拶だけ済ませて立ち去りました。
その後も田畑や農家の風景が延々と続き、道に沿ってゆっくり歩いていきました。
気付いた時にはすでに駅から2キロ以上離れていて、いつの間にか集落の外れまで来ていました。
最後の小屋を通り過ぎ、街道はまだその先の林の中へと続いていました。
まだ時間が余裕であるので、自分は何も考えないままその奥へ進んで行きました。
途中歩いていると、いくつかの仏像が設置されているのを見かけました。
ある所には首から上とその下が別々になった地蔵があったり、少し不気味でした。
ハイキングコースも兼ねているこの街道沿いにはいくつかの看板が立てられていて、
そういった仏像や地元に残されている伝説に関して軽く説明が書いてありました。
それらを読んで、足を進めながら昔にこの道を歩いていた旅人の姿を偲んでいました。

ずっと歩いているうちに街道は駅付近から平行していた国道とぶつかるのですが、
そこは山肌を貫通するトンネルの入口でした。
ちょうどその場に地図があったので見てみると、トンネルの先は山の向こうの集落へと続いていて、
ハイキングコースとなっている街道も同じく山の向こうまで続いているとのことでした。
同じ方向ならトンネルを歩いても良かったのに、何を思ったのか自分の足は街道が続く方向へ向いていました。
その先は人の気配が全く無い山の中でした。
[14]
[original article: 2004/06/16(Wed) 11:39:19] Menu
あのとき素直にトンネルを通らずにその脇から伸びている山道を選んでしまったのは、ある意味失敗でし た。
その先は人の気配が全く無いけもの道だったからです。
距離は1キロ半と言ってもひたすら険しい登り坂で、思っていたよりも数倍の距離感を感じま
した。
辺りはうっそうとした森に囲まれ、時々足を滑らせそうになったこともありました。
森の中からは鳥や虫の鳴き声がいろんな方向から聞こえてきて、
もし野生動物が現れて襲いかかってきたらどうしよう?と思うと不安で仕方がありませんでした。
2〜30分歩き、ようやく峠の茶店跡に辿り着きました。
茶店跡と言っても、百年以上前の話なので面影はさっぱりありません。
立てられていた看板によると、人の足で街道を往来していた時代にそこに茶店があり
お伊勢参りの旅人が立ち寄ったという記録があったそうです。
それを思うと感慨深いものがありますが、
人が一人も通らない現代に生まれた自分にとっては茶店が営まれていたなんて想像がつきません。

そして峠を後にし、今度は山の向こう側を目指し下っていきます。
方向で言えば西側から東側へと越えていたのですが、
途中歩いていると向こう側の集落を見下ろせる眺めのいい場所がありました。
しかしあまりの標高の高さに驚いてしまいました。
自分がこの山の高さを必死で上っていたなんて考えると、よく体力が続いたもんだなと感心してしまいました。
しかし峠を越えた東側に出た頃から、西日は山肌に隠れてしまって辺りは急に薄暗くなっていきました。
日差しの届かない薄暗い道が長く続いていました。
山を下りて行くにつれて森の暗さは増し、だんだん恐怖感が増してきていました。
落ちている葉っぱが何か得体の知れない生き物に見えてしまったりとか、近くに霊が居るかもとか、
普段絶対考えないあり得ないことを考えてしまい、徐々に足取りは速くなっていました。

そんなことを考えながら歩くうちに下山できましたが、
その4〜50分間、誰一人すれ違う人間は居ませんでした。
[15]
[original article: 2004/07/28(Wed) 16:57:23] Menu
気付けば山を越えて東の集落に足を踏み入れていました。
まさか峠越えするなんて思っても見ませんでしたが、何十年も時間が止まっている様な古い家々がそこにはありました。
村で数少ない信号を渡って少し歩いていくと、道の駅が見えてきたので少し休憩をすることにしました。
道の駅では村の名産品や木材などが売られていたりしていました。
個人的にはレストランのような食事を期待していたのですが、残念ながら売られていませんでした。
食事はあきらめて軽く飲み物を口にしていたのですが、その時大変なことを気付いてしまったんです。
太陽が沈みかけていました。
まだ4時台というのに、空がだんだん暗くなっていくんです。
少し油断をしていました。この先いくつか尋ねたい場所があったのですが、断念して駅に戻らなければいけない時間なのです。
なぜなら都会と違って山の夜は比べ物にならないほど怖いと聞かされていたからです。
無駄足になってしまうけれども、数年後にきっと再び訪れようと決めて帰路についたのです。

そして今まで来た道を戻ることにしました。
空は徐々に明るさを失う中、荷物を片手に一歩一歩駅へ向けて進みました。
往路の山道を通るのは自殺行為なのでトンネルを通っていきました。
たまに通る車に止まってもらうことを期待していましたが、なかなか昼みたいにうまくは行きません。
トンネルの壁面をエンジン音だけが鳴り響き、次々と追い抜かれていきました。
15分程トンネル内を歩き、ついに山の反対側へと抜けました。
しかし待っていたのは深い暗闇が続く道でした。
都会の明るい夜しか知らない自分にとってこの暗さはショックでした。
通過する車の明かりが道を照らしてくれるのを頼りに残り3キロの道を歩きましたが、
車が一瞬通らなくなる時の暗闇は駅に辿り着けることすら不安になってしまいました。
この時思わず自然をなめすぎていた自分を思い知らされました。
一人になりたがって山奥へ来たくせに、いざ孤独となるとやっぱり人の力を頼ってしまうこと、
結局自分は文明の力に頼りすぎていて誰の助けも借りないと言っても、
支え合っていかなきゃ生きていけないのが人間であることを、歩いている中で気付かされました。
この旅で得たものは計り知れない位大きい気がして、それはきっと今後の人生観を大きく変えていく予感はしました。

不安と戦いながら歩くこと約30分、ついに伊勢奥津駅に着きました。
着いた頃には最後の列車が発車するまであと3〜40分ありましたが、
駅前に広がる無限の夜空には幾千もの星が瞬き、流星が飛んでいくのが見えました。
じっと見ていると深く澄んだ夜空に吸い込まれそうでした。
出発前には前日に記したノートを再び広げ、
この日の日付で川上さんの滝を見たことと星空がきれいだと付け加えました。

そして松阪行きの列車に乗り込み、美杉村を後にしました。
[16] (最終回)
[original article: 2004/08/16(Mon) 18:14:47] Menu
計16回に渡り、2000年11月に出かけた一人旅の記録を書かせて頂きました。

帰宅後はまず気になったのが一時的に距離を置いてしまった友人達の存在でした。
こちらからは突然居なくなった訳を話し、一方的に突き放してしまった結果を招いたことについては謝罪しました。
その後は無事に和解することができました。
しかし旅を通じて、私自身は今後の生き方についての大きな課題を背負わされた様な気がしたんです。
元々旅のきっかけは、生活におけるデジタル化の波に飲み込まれかけた時期に
携帯電話やインターネットといった情報端末を一旦切り離して100%アナログに身を投じてみたいという突発的な興味からでした。
そして実際の旅で学んだのは、デジタル化の波を食い止める必要は無いけれども
常にアナログな感覚を忘れてはいけないということだったのかもしれません。

情報社会のさらなる急激な進化には、日本という国で生きていく限り逃げることは不可能だと言えます。
今後は生活において今以上にデジタル回線上の情報交換に依存することが考えられますが、
例え情報伝達手段が変わったとしても、そこには必ず『人と人とのつながり』が存在するんです。
伝書鳩や飛脚から、手紙、音声電話、ファクシミリ、インターネットメール、テレビ電話…
挙げていくと切りがないけど、発信者が居ると必ず受信者が居るのは当然です。
インターネットでは顔が見えない文字のみの通信で少しでも相手の気持ちを察しようと努力はしたいけれども、
一方で相手は本当に自分自身を見てくれているのだろうか?
もしかすると通信相手の人物像を誤解して認識していたり、あるいは
ロボットのような非人間的存在として解釈して、されてはいないだろうか?
という疑問をインターネットを利用し始めた当初は常に意識してたのかもしれません。
インターネットが登場して約10年、長いのか短いのかは分かりませんが、
まだ正しい使い方を模索している段階であることは確かだし、
それはきっと新技術が登場する度に模索し直していく気がします。
現在ではインターネット絡みでの殺人事件や詐欺事件が増えましたが、
それはきっと正しい技術の使い方を知らないからだと思うんです。
幼児や少年同士の殺人が増えてきている現状から考えられるのは、
使い方を知らない大人が子供に対して一緒に議論することを避けていることも理由なんじゃないでしょうか。

技術の進化から逃げるのも一つの方法だけど、
個人的には人と技術は表裏一体であることを忘れたくありません。
いくら一人になりたくても社会では必ずどこかで自分の周りで人が動いていて、
誰かの助けを借りたり、逆にこちらが誰かを知らず知らずに助けていることだってあるんです。
そしてその人間関係の中で様々な大切なものを吸収し、成長していくんです。
それはネット世界でも学校でも職場でも同じことが言えるんじゃないでしょうか。
私がこの先どんな人に出会えるかどうかは分かりませんが、
何事にも目をそらさずに向き合うことの大切さは忘れないように生きていきたいですね。


3年後の2003年11月、再びあの滝を見るために美杉村に出かけました。
日帰りで車で向かったんですが、あの景色は全くといっていい程変わっていませんでした。
美杉村に将来もJR名松線が残っているか、あの美しい農村の風景が残っているかは分かりません。
けれども3年前の旅で私が学んだことは間違ってないと再確認できて、
懐かしさを感じさせる日本の田園風景がこれからも残っていてほしいと強く願いました。


- Forest Scape Menu -

/ Index / Introduction / Suminoe Sounds / Demo Tracks / Performance Tools /
/ Forest Scape / Link /

Copyright(c), 2001-2010 Hirofumi.S/Metropical Net All Rights Reserved.