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住之江・住吉の歴史背景


昔の住之江から住吉にかけての土地は、太古の昔から海神を祀った住吉大社を中心に住吉・安立・粉浜・墨江などに小さな村が点在する農村・漁村地帯でした。 現在も地域の中心的存在である住吉大社は難波宮の時代以来千数百年に渡り、大阪湾を行き来する外交や海上貿易において重要拠点とされてきました。住吉津 (すみのえのつ)と呼ばれた港には遣隋船・遣唐船など数多くの貿易船が発着し、難波津と共に古代日本における最重要の物流拠点だったと言われています。江 戸時代までは住吉大社の鳥居の前は松林の広がる砂浜で、参道の先に広がる目の前には『すみのえ』と呼ばれていた美しい入り江が広がっていました。海岸線が 入り組んだ礁湾(ラグーン)を形成していたその光景は、まるで天橋立や三保の松原などに引けを取らない景勝地だったと言われています。その風景の中を多く の文化人が通い、万葉集を始めとした歌集に住吉を題材とした数多くの歌が残されています。1000年以上前には『住吉』の地名は『すみのえ』と当て字で呼 ばれていたそうですが、他にもこの地を表すいくつかの呼称や漢字表記があったようです。その後呼称は『すみよし』に定まり現在に至りますが、古代から水の 透明さや閑静な住環境が存在したことは事実と言えるのではないでしょうか。
江戸時代には1704年の大和川の付け替えにより、住吉大社の南1.5kmに河口が新しく開削されました。それまで淀川に注いでいた川は住吉の海が出口と なりましたが、付け替えに伴い新大和川流域となった大阪南部には数多くの水田が新しく生まれ、流域の生活が一変しました。しかし次第に河川に堆積した土砂 により度々洪水が起こり、農民は災害の度に苦しめられます。堺港は大和川からの土砂体積で何度も埋没し、船が発着できず物流が停滞したことで次第に中世に 栄華を誇った自由都市は衰退していきました。その後災害防止と利益確保を兼ねて、河川からの土砂を利用して海を埋め立てることで新しい農地を開拓しようと する動きが見られます。それが江戸時代後半から始まった加賀屋新田・北島新田などの新田開発でした。この事業は土砂堆積で浅くなった川底を掘り下げて船舶 の航行を円滑にすることで物流を活性化し、新しく埋め立てられた土地では田畑として米や綿など農作物の生産が行われました。これらの作業は地元の住民主導 で直接従事し、結果的に官僚の力を借りず住民自らの手で経済の活性化を結びつける事業だったと言えます。一方、新田開発が進むにつれて美しい住の江の入り 江は徐々に埋め立てられ、陸地が沖合へと広がっていきました。現在の住吉公園は当時の松林や礁湾の面影を唯一残す場所とされており、その公園入口が面して いる26号線沿いにある高灯籠が、昔海岸線がこの辺りまであったことを現代に伝える証拠となっています。

明治には大阪府住吉郡と呼ばれていましたが、その後1896年(明治29年)に東成郡と合併されました。明治初期から木津川沿いなどに おいて一気に近代工業化が始まりますが、埋め立てが進むにつれて現在の住之江区となる土地がだんだん姿を現します。1885年(明治18年)に日本最古の 私鉄(旧国鉄が後に吸収した路線を除く)である阪堺鉄道(現・南海電鉄本線)が開通し、住吉の人口も少しずつ増えていきます。1925年(大正14年)に は大阪市に併合され住吉区となりました。まだ田畑ばかりの地域でしたが、その頃北島新田はすでに後のエースやローランドが創業する現在の新北島辺りまで広 がっていました。昭和初期になると住之江公園にて大阪市が主催で競輪が開催されています。(1964年/昭和39年まで)現在の新なにわ筋には市電三宝線 も走り始めました。大阪市域に編入され住吉区となったこの辺りはまだ一面田畑が広がるばかりで、住宅は点々としかなかったそうです。
戦争が終わり、戦前計画され一時中止されていた南港開発が本格化します。高度成長期を見込み港湾設備や工業の拡大と住宅地の確保を目的とした大規模な埋め 立てが進み、海岸線はさらに遠くなっていきました。加賀屋や北島はまだ田畑が広がる土地でしたが、1956年(昭和31年)から、現在も競艇の聖地として 有名な住之江競艇が箕面市の主催で開設されました。そんな中1960年(昭和35年)に電子オルガンを始めとする楽器専門メーカー『エース電子工業』が創 業され、音楽業界における革命の原点となる数々の電子楽器・音楽機材の開発が始まります。1970年(昭和45年)の大阪万博を迎えた頃には交通量の増大 に伴い、住之江にも広幅な道路が次々と整備されていきました。阪神高速堺線の開通や新なにわ筋・住之江通〜長居公園通り・大和川北岸線の整備など区画整備 の一方で、かつての市電は1968年に住之江から姿を消しました。1972年(昭和47年)にはエース電子(後に日本ハモンドに再編)の隣近所に、後に世 界的知名度を持つことになる電子楽器専門メーカー『ローランド』が創業しました。同年秋には市電の代替も兼ねた住之江の足として、地下鉄四つ橋線が住之江 公園まで延長されています。1974年(昭和49年)4月には住吉区から住之江区が分区されましたが、高層団地の建設が始まり1975年(昭和50年)頃 から次々と入居が始まりました。当時まだ私は生まれてませんが、親も住宅完成と同時に入居したそうです。
古くからの住吉や住之江の街並は、長いときを経て人情の漂う落ち着いた住宅地として成熟していきました。21世紀になった現在も、住吉大社は正月三が日に おいて全国5本の指に入る参拝客が訪れて毎年賑わっています。1981年(昭和56年)にはニュートラム南港ポートタウン線が開通し、新しく埋め立てられ た南港には高層住宅街ポートタウンが生まれ、大規模なコンテナ埠頭が24時間稼働しています。現在南港にはインテックス大阪やATC、WTC、Zepp Osakaなど音楽ライブで馴染みのある施設も数多くありますが、これら南港エリアは全て住之江区域になります。

住吉大社の目前に広がる景勝地は今や遥か遠くの昔話でしか無くなってしまいましたが、いずれはローランド・日本ハモンド(エース電子) の創業地である事実も昔話と変わっていくでしょう。私が生まれた頃はまだ畑や空地が点在していた住之江の辺りも、現在は数々の高層マンションが進出して大 きく景色は変わりました。当時の建物があった跡地からはローランド・日本ハモンド共に全ての関連企業が撤退しておりすでに10年以上経過しましたが、そん なかつての先進的な空気を感じ取るために、住之江から世界に向けて始まった電子楽器創成期の形跡を求めて歩いてみるのも面白いかもしれません。今では撤退 後のビルには全く知らない企業が入居していたり、ある旧敷地には集合住宅が建っていたりします。近隣住民の方々への配慮から正確な住所や地図は掲載できま せんが、かつての製品の資料などを手がかりに探してみるのはコレクターやファンにとっては魅力があるかもしれませんし、60年代〜90年代初頭までの間に 数々の音楽革命が生まれた空気に近づくための興味深い体験になるだろうと思います。


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